2023年11月30日木曜日

ヨーガとしてのサーフィン

サーフィンをする時、できるだけ人の少ない場所を探して入るようにはしているのだが、それでも波の良い時は多くの人達と一緒にやることになる。

一つの波にはサーファー達がピークと呼ぶ波が崩れ始める場所がありその近くにいる人がその波に乗る優先権を持つことになる。海に入る時、基本的にはピークに人がいたらショルダーというピークから離れたところから入ってそこでしばらく様子を伺う。ピークにいる人達が一通り乗るまですぐにはピークには近づかない。そういうものだと学んできたし、そうする事が自分にとっては心地よい。そうしてその場の空気に少しずつ馴染みながら周りの人とのリズムをはかり波に乗る。

人が多いときは全くピークに近づけず、そのポイントで一番の良い波には乗れない事の方が多いが、混雑から離れ手前や端っこで自分のお気に入りピークを見つけて一人気ままに波乗りを楽しむのも好きだ。

ほぼ無人、という状況はよくあるけれど、完全に無人の時なんてそう滅多には無いからサーフィン中には人との関わりというものがある。

そんな中で時々、全ての波に乗ろうとする人が目についたり、いつもいつも自分の目の前に来て波待ちする人がいたりすると、全く波が回ってこなくて「もーなんなのよ。」と正直イライラすることもある。

以前は気にしないように呼吸をしたりして心を落ち着かせるように努めていたけど、最近はこういったイライラや嫌だなーという感情が出てきた時こそ自分の心の成長のチャンスだと捉えている。
物事の捉え方や価値観を変えていけるチャンスだと。

その為にまずは変えられることと変えられないことを見極める必要がある。

目の前に起きている事は変えられる事なのか?変えられるとしたらどうやって?何が出来る?それとも私には変えられない事なのか?

全ての波に乗ろうとする人はいる。
ルールやマナーを知らないのかもしれないし、知っていてもそうしているのかもしれない。それは私にはわからない事。

その人の価値観や行動を私には変えることは出来ない。だけど私の見方を変える事は出来る。

ヨーガが生まれたインドの文化であるヴェーダの価値観では全ての人が平等にその人の役割を与えられていると言う。そして他の人の役割を生きる事なく、自分の役割を生きなさいと教えられる。

日常でもそうだけど、海の中にも本当に様々な人がいる。そして私も含めてその全ての人がそれぞれの役割を与えられているのだ。

端っこで待つ私にはその配役があり、全てに乗ろうとする人にはその配役がある。

もしもみんなで一本の映画を作っているとしたら、私は私の役を精一杯演じることが私の仕事。他の人にもそれぞれの役がありそれを精一杯演じるのがその人の仕事。その役はおかしいと、私の役と同じようにしなさいと言ったり、はたまたその役が羨ましいからと自分の役を放棄して人の役を演じてしまったら映画は成り立たない。
全員が同じキャラクターの映画なんて全然面白くないだろう。

それぞれ違う役割を生きるからこそ調和があるのだ。


話は戻って、では、この海の中で人の事をとやかく言う事なく何が出来るかを考えるとしたら?
その人から離れて移動してみるとか、一度海から上がってみるとか?
あの人が満足して幸せに満たされますようにと祈るとか?


この波に乗りたいと言う気持ちが執着となると、全部乗ろうとする人がいた時にはその人と戦うことになるだろう。
だけど、そんな風に戦いながらサーフィンをするよりも、見方を変えたり捉え方を変える。そんな柔らかさを持って調和を選び、海に入れたことに感謝して海から上がれるサーファーでありたい。

サーフィンが欲望を満たす為のものか、精神的な成長をもたらすものになるかはこういった部分でも変わってくるのだろう。

こんな事を言っている私も海の中でも日常でも意図せずして人に迷惑をかけている事はきっと山ほどあると思う。
自分がいつも絶対正しいと思っているとその正しさからはみ出した人を批判したくなってしまうけど、自分も人に迷惑をかけているんだと思えば人の事も許せる。

自分の心が世界を作っているとしたら、批判する心があれば批判の世界が目の前にあるだろうし、感謝の心があれば感謝の世界が目の前にあるだろう。
自分の心が何を選択するかで世界は変わる。

サーフィンしながらそんな事を思っている。

とは言え、やっぱり波にも乗りたい。

まだまだ修行の道は続くのだ。